福地鶏について

福井県産の地鶏で、東京でも知る人ぞ知るブランド鶏、「福地鶏」。私が一番最初に出会ったのは、偶然にも、町田にいた時。家のすぐそばにできた、素材にこだわる洋菓子店の、オーナーさんが福井出身の方で、パウンドケーキやクッキーなどに福地卵を使っていて、素朴な美味しさに魅了されていました。

その直後、SNS上で、農業家である夫の友人志野さんが、「カフェの店内の装飾に、壁画を描いてくれる人探してます!報酬は平飼い卵一年分!」とのお知らせを目にし。福地卵一年分!の報酬がとても魅力的に映ったのと、彼らの畜産に対する考えや、先進的な活動にひかれ、どうしても行ってみたくなり、恐る恐る?手を挙げ、それがまさか約1年半後の移住に繋がるとはその時は想像もしていなく、初めて福井へ行くこととなりました。

夏、一家で5日ほど福井に滞在し、カフェの壁画を描かせてもらいながら、子供と一緒に、耕作放棄地を活用し、家畜がのびのびと育つ環境である、畜産の現場にも関わらせていただき。なんとも貴重な体験を、親子そろってたくさん味わわせていただきました。

福地鶏は、地元産の米クズと、遺伝子組み換えのない飼料を食べて、「平飼い」で飼育されています。「平飼い」とは、鶏を平たい地面の上で放し飼いの状態で飼育する事です。鶏は本来、1日に一万回以上地面を突き、羽を綺麗にするために砂浴びをするそうです。狭い巣に隠れて卵を産み、木などの高いところで眠る。こうした鶏の本能的な行動を出来るだけ制限しないことにより、ストレスを抱えることなく健康に育つということです。

この時、牛舎、豚小屋、鶏小屋も見学させてもらいましたが、家畜に出来るだけストレスを与えずに育てるという理念で飼育している家畜たちは、みんな広いところでのびのびと良い表情をして飼育されていて、匂いも一般的な畜舎のようににおいませんでした。幸福度ナンバーワンで有名な福井県ですが、家畜の幸福度も、本当に高いように見えました。

そんな経験が元になり、他にも福井の魅力をたくさん感じたので、移住を少しづつ考えるようになり、今に至ります。

今、そのきっかけになった農業家の志野さんの農園が越前海岸にあり、平飼いで鶏を飼っているので、その卵を贅沢に毎週いただいています。海辺で飼われている鶏の、産みたての卵のコク深い美味しさは、一度味わう価値ありです。

海の味

こちらへ引っ越して来て、海の幸の味には、いただくたび、その都度、美味しくて驚かされますが、海藻の味に、ハッとさせられるような事が多いです。

5月は、漁が解禁になって軒並みこの辺りの家々が庭先に、わかめを干している風景に出会えます。干したてのわかめの味は最高で、これだけ、美味しい!と感じるのは、太陽の力を体の中に取り入れ身体が喜んでいるのを感じます。まさに、海の一部をいただいている感覚。

海辺の香り、というものも、毎日、時間帯によって変化して、面白い。村中でわかめを干しているので、日差しの強い日中は、磯の香りがいつもに増して濃厚になります。夕飯の後日没の頃に散歩に出かけると、海辺の香りが、なぜだかわからないのですが、まるで薬湯のような香りに満ちてきて、深く深呼吸するとても心地良い。そこにどこからかの夕飯のおかずの匂いも加わったりして。

海辺の暮らしというのが、こんなにも、味覚嗅覚を刺激してくれるものとは、想像以上でした。

わかめ一つとっても、食べる場所、調理法によって様々な味を楽しませてもらえます。わかめといえば、これまで食べていたのは、小さくカットして干したものか、塩蔵わかめといった、たくさんの塩につけてあるしっとりとした保存食のわかめくらいしかほとんど馴染みがなく、茎わかめも好きなので、スーパーなどでみつけると塩漬けのものを入手していましたが、ここ越前海岸で手に入るわかめは、めかぶや茎の部分など、新鮮なものが手に入るので、葉の部分もそうですが、しゃぶしゃぶにして瞬時に色が変わるのを楽しみながら食べる食べ方、あとは網に乗せて直火焼きも味が深まりとても美味しいです。

一番手軽なのが干しわかめで、生では食べることの出来ないわかめの茎と葉の部分を1日干しただけなのですが、パリパリで、口の中に広がる美味しさには、子供達も手が止まりません。

茎の部分を干したものも、とても美味しいです。このまま噛めば噛むほど味が出るおつまみでも良いですし、素揚げも良いとのこと、少し煮ると、味が深く、しみじみします…。そして旬が同じ季節の筍も、よくご近所の方などからいただくので、若竹煮に。さらに鯛を釣ったよ、フクラギがとれたよ、とおすそ分けをいただくので、特に春は、最高のご馳走をいただけます。

わかめがどんな風に海の底に生えてて、どんな風に刈り取られるかなんて考えたこともなかったですが、ここへきて、いろんなこと、初めて知識を得ています。刈りとる人が鎌を持って潜って、水深1メートルから2メートルくらいのところで株元を刈り取るそうですが、なかなか、簡単ではありません。潮の凪いだ天気の良い日に潜るそうです。海は刻々と変化するので、波を読み、風を読み、海に入ります。息子の保育園でも、年長さんになるとわかめ採りをやらせていただけるそうですので、今から楽しみにしています。

それに、全国的に出回っているわかめは、ほとんど養殖物であるのに対し、ここ越前海岸のわかめは全て天然物。美味しさの秘密はここにあるのかも知れません。

海辺の路地

自転車で入っていく。ワクワクする。

瓦屋根の古い家並み、潮騒を聴きながら

昔見た

夢の中で見たようなどこか不思議な懐かしさ。

路地をぬけ、また次の路地に入る。

はたはた

越前海岸の山々は新緑が美しくなってきて、海はきらきら。日差しが柔らかくなってきましたが、みなさまいかがお過ごしですか。

3月の誕生日。ご近所の方からプレゼント。「簡単に煮るだけで美味しいよ。」と、包みを一つ、いただきました。

ハタハタは、日本海側の各県でほぼ一年中とれるそうですが、旬は冬から春にかけて。白身ですが脂が乗っていて、さっと煮付けたら、まるで、銀鱈のような風味と食感だと感じました。栄養価高く、鱗もなくて扱いが簡単。ただ焼いただけ、干物、煮物、揚げ物、鍋物なんでも美味しくいただけるそう。北陸の人にとっては馴染みの深いお魚のようです。

大昔の人は、雷を神様と考えていたそうです。神という字を分解すると、「ネ」と「申」です。この右側の「申」は、象形文字で、ピカッと雷が落ちている姿を表したもの。かみなり、の音も、「神なり」と書けますね。

雷が鳴り、(神様が落ちてきて)海が荒れると捕れるのでハタハタにこの字が当てられたということ。こちらへ引っ越してきてから、幸いにもまだあまり雷鳴をきいていませんが、北陸の雷は、関東のそれとは迫力が違うとか。

太古の人々は、日々神を感じ、自然への畏怖を抱き暮らす中で、食べ物に対する、いのちをいただくという行為に対する感謝の気持ちも、現代人よりもきっと、ずっと大きかったことでしょう。ずっと海辺で暮らしている方たちの、日々の過ごし方に接しながら、いくつかの神事などに参加させていただくと、太古の人からしっかりと受け継いでいる精神性をしっかりと感じさせていただくことができます。

3月20日の春分の日には、海の神様をお祭りする神事があり、大丹生の港では、この日は荒波でしたので、少し離れたところから、海に建つ祠に向かってお坊さんとともに村の人たちがお教を唱えるという場に参加させていただきました。

実際船を出し、魚を捕り、海とともに生きている暮らしがあり。神事にも、より神聖さを感じます。私もこの港から海に向かう船の恩恵を頂いているので、漁師さんの日々の安泰を祈る気持ちが、自然と大きくなるのを感じます。

今、「アマビエ」という、疫病退散の絵柄をあちこちで目にしますが、私にとってはこの神の遣いであると言われるハタハタもまた、絵にして感謝の気持ちを表し、世の平安を祈ることも無意味ではないと感じられ、もともと版画づくりの私の根本にある、持つ方の護符になって欲しい、という願いも変わらず込めて、みたままを版画にしました。

日常

穏やかな天気の休日。海に出かける。
釣り人が一人、海に向かう姿。
父が生きていたら、ここに来て、釣りを思い切り楽しんでくれただろうな。釣り人に出会うたびに思います。

日本海は、朝日を拝めないのですが、夕日が毎日海に沈んでいきます。雲の形、海の色が毎日、刻々と変化し、表情豊かな海辺の風景。
ここで生まれ育った人からすれば、当たり前すぎる日常も、見渡す限りビルや建物にあふれた街で育った身としては、毎日のこの変化がとても刺激的。

人知れずそこにある風景

海岸沿いの国道、305号線を、越前海岸を楽しみながらドライブで利用する方は多くいらっしゃるようですが、その多くの方が気づかずに通り過ぎてしまっている、勿体無い風景というのがたくさん存在していることに、住んでみて5ヶ月ほど経ち、地元の方に教えてもらいながらいくつも見つけ、驚いています。

長橋から越廼にかけての道のりだけでも、山に向かって急な坂を入り込む道が何箇所もあり、少し行っただけで、美しい田園風景の向こうに海が見える、という、それはそれは素敵な風景が、実はたくさん目立たずに存在していて、移住者の先輩である志野さんが製塩をやりながら、ここの耕作放棄地の一部を他のお仲間と一緒にお手入れされ、素敵な農園を作られたりしています。

世界的な異常事態で、学校が休校になり、数々の施設もお休み、行き場を失っている子供達ですが。志野さんの農園が、まるで楽園のようで。

木登りにブランコ遊び、枝集めをして焚き火に、美味しそうな草や木の葉を見つけてヤギの餌やり、鶏の卵とり。

こういう場に最初は慣れていなくて、楽しみ方もわからない都会っ子の我が子たちでしたが、すぐに楽しさを体で覚えて、思わず、歓声が出ます。

木登りを楽しいと思わない子はいないみたい。足の裏の、木の枝の感触、さやさやという木の葉ずれの音、いつもより高くなった視界、そこに吹き抜ける心地よい風。幼い頃の記憶は私の中にも強烈に残っています。この子たちが育つ過程で、ここでどんな記憶を作っていくのか。

ここだけでなく、私が住んでいる小丹生町周辺は、子供達が喜ぶことをたくさん提供してくれる場や、人がたくさんいて、こんな事態ですが、とても助けられています。

越前水仙のお話

私がお世話になっているサテライトオフィスのある越廼村の居倉地区は、「越前水仙発祥の地」です。
冬場は越前海岸全域の崖や風景のそこここに水仙ばたけが広がっていて、それはそれはとても綺麗な冬の風景を作ってくれています。雪景色の中の水仙は、この地で育った多くの方達の、冬の心象風景のようです。

潮風を受けて、傾斜の強い崖で育つことで放たれる強く芳しい香りは、越前水仙ならではであり、他の地では味わえない貴重な文化遺産でもあるようです。

けれども水仙の栽培は後継者不足の問題を抱えていて、球根を栽培できる方が年々減り、もしかしたらこの風景も、近い将来維持できなくなる日が来るかもしれないという危機に直面しています。それをなんとかしようと取り組んでいる方達がたくさんいらして、私も少しでもお役に立てないか、と思うばかりです。

そんな水仙を愛する越前地域の大きなイベントとして、こしの水仙の里の水仙まつりが1月の連休に開催されました。越前海岸ならではの、海産物などの特産品をはじめとした、魅力的な出店がたくさん出て、今年はお天気もよかったため、とても賑わいました。遠方からのお客様もたくさん見えていました。

朝まだき 犬をお伴に連れて

こんにちは。
みなさまいかがお過ごしですか。
私はと言えば越前海岸でも、大好きな文学に触れながら作品に向かっています。

今手に取っている本は、エミリー・ディキンスンの詩集。
ここは日本海なので、時代も国も違い、彼女が見ていた風景とはだいぶ異なるかとは思いますが、「朝まだき」で始まる海辺が舞台の詩を、水仙の花咲く越前海岸の風景に置き換えて、木版画にしました。

今も、潮騒の聞こえてくる室内にいますが、版画と共に、この音も一緒に届けることができたら良いのに、と思います。作品の題材になった詩を、以下、一部引用します。

朝まだき
犬をお供に連れて
海へ行った
人魚が下から浮き上がってきて私を見つめた

潮の 銀のかかとが 足首に触れた瞬間
靴に真珠の玉が溢れてくる

エミリー・ディキンスン詩集 「わたしは名前がない。あなたはだれ?」詩作品520
内藤里永子編・訳

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